アヒルの子/コラム of ワタシ×家族×ドキュメンタリー

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ワタシ×家族×ドキュメンタリー

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  アヒルの子について
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井津元 由比古
「いい家族じゃないか、ただし○○を除く」

心に残る作品は、2種類に大別できる。
作品世界の中で生きられるものか、作品世界と自己を対照できるものだ。
いわゆる名作と呼ばれて商業的に成功するものの大半は前者だ。
後者は、人が必要とするときに目にとまり、本当に必要だったら出会うものなのだろう。
作品は何でもいい。小説でも映画でも音楽でも、または芸術作品であっても。

『アヒルの子』は、私にとっては後者である。
私にとっては、という言葉をはさんだのは、
この映画のとらえ方が観る人によって大きく異なるだろう、と感じるからだ。
すなわち、共感できたり、ダメージを受けたり、感情移入できるところが、おそらく別なのだ。

だから、この作品を薦めるときに、こう話す。
「いい家族じゃないか、ただし○○を除く」と。この○○が人によって違う。
見るときの精神状態や、経験の重さによっても変わってくるのではないか。
もちろん、主人公である小野監督に感情移入する人もいるだろうし、○○が監督自身だと感じる人もいるだろう。

観賞後に、思索する。
家族について、育ち方について、育てられ方について、そして形成された自己について。
作品が問いかけてきた内容を個々に考え、それぞれに答えを出す。問いかけが真摯なぶんだけ、ダメージを受ける。
撮影当時、監督は20歳だった。
おそらく20歳の私は、否定的に答えるか、問いをかわすかして、ダメージに向き合わかなったろう。
が、中年に差しかかったいま、それは癒やしにつながる。

最後に、これから観る人へ。
この映画の本当のラストは、パンフレットの最終ページだ。先に読まない方がいい。

西巻真(歌人)
短歌というジャンルでいつも批評をしています。映画を批評するのは本当に初めてなので、
「まったく見当はずれのことを言うのではないか」と自分でもどきどきしながら
とにかく虚心に映画を見ました。

最初、ツイッターで「家族の暗部を抉り出す映画」であるかのような宣伝があったので、
多分今の自分にぴったり合うのではないかとかなり期待して見に行きましたが、
正直、そのような宣伝とはまったく違う映画ではないかと思いました。

「私はヤマギシに1年間預けられた」という冒頭のコピー。
「家族は私のことを何も知らない」という独白。

この独白を見ながら、私たち観客は素直に映画の「視線」と一体化しようとするわけですが、
前半部分は正直、まったく自分と「一体化」できなかった。
それは、映画が何かの痛みを表現しているからではなく、
単なる「甘え」を表現しているにすぎず、
ドキュメンタリーとしての強度をまったく欠いているからだ、と感じました。

私はいつも短歌というジャンルで言葉を使って表現していますので、
言葉の暴力性についてはいつも考えます。
しかし、カメラを通して被写体のなかに入り込んで語る「暴力性」については、
おそらく言葉以上にデリケートな問題があると思います。

前半部分、主人公である小野さやかは、ご自身のご家族にむかって、
いきなりカメラを振り回して「あやまれ!」と迫りはじめます。
5歳のときにヤマギシに入れられた、何歳のときにお兄さんに暴行を受けた、
何歳のときにこうされた、だから、自分は「今」、「クラい」んだ。

たとえば、もし私が彼女のお兄さんの立場なら、
夜中にカメラを振り回していきなり「土下座しろ」
とせまってくる彼女を、一体、どう思うでしょうか?

はっきりいって、前半の「主体」である小野さやかは、まったく周りが見えておらず、
他人の迷惑をわきまえず、深夜にもかかわらず相手の都合をまったく聞かず、
ただ自分の「トラウマ」のようなものがひたすら「家族」にあるということだけを信じて、
いきなりもう「大人」である自分の家族にカメラをむけ、
それが自分の「トラウマ」の解消であるかのように「信じている」、
ただの20歳の大きな「子供」のようにしか見えませんでした。

小野さやかの目は非常に鋭い目ですが、あれは映画という装置のなかにおいてみると、
実は周りが何も見えていない、子供の目にしか見えないように思えます。

マーケティング上では小野さやかの語り口にたって「迫害された私」を強く前面に出そうとしますが、
ほんとうに小野さやかがそういう「私」なら、ご家族のみなさんが、
こんな暴力的な撮影にOKを出すわけがないのではないか、と思います。

私は逆に、小野さやかという人は、実は限りなく家族から愛されていて、
どんなに自分たちをこっぴどく描いた映画でも、ちゃんとOKを出してくれる、
実は愛情あふれる家族のもとで育った、幸運な映画監督なのではないか、
と思わず「ほのぼの」としてしまいました。

                   ※

この映画が説得力を持ってくるのは、むしろ後半部分だと思いました。
自分でヤマギシ会のかつての(5歳ぐらいですから、
今となってはまったく覚えていない)友人たちに電話をかけ、
直接会いにいき、実際に「取材」を敢行していくシーンです。

そこには、ヤマギシ会であるとか、そうでないとかという社会的な「期待の文脈」とは離れた、
親の苦悩、子供の苦悩といった目線を丹念に描くことで、
非常にニュートラルに対象にせまろうとする、ピュアな視点がありました。

このとき、小野さやかははじめて「ドキュメンタリー」というものの出発点にたったのではないか、
そう思って、非常に納得感を持って映画に見入ることができました。

小野さやかは、その鋭い目を劇中で観客に見せるよりも、
その鋭い目でレンズをのぞいたほうがいい映画がとれる映画監督なのではないか、そんなふうに感じます。

カメラというのは、そもそも日常を暴力的に切り取る装置ですので、
いきなり身内をとろうとすると、まるで、保険の営業か何かになってしまう。

「身内だからとりあえず保険に入って」といって、
かなり無理やり高額の保険を売りつけて顔出しまでさせる。
もし前半だけで終わっていたなら、そんな後味の悪い映画になっていた気がします。

これからの監督、小野さやかに、「もっと家族の暗部をえぐってほしい」とか
「ヤマギシ会の実態をえぐってほしい」というような、
いわゆる商業的というかマーケティング的な「期待の文脈」を持ち出して
本人を食い物にするような「批評」を私はあまり好みません。

「作品」が先にうまれて、あくまでそのあとで二次的な形で生まれてくるのが批評であって、
批評は「期待」ではないからです。

(そのような形で出版化をしてほしい、というような声があって、結局頓挫した、
という話も伺いましたが…それは頓挫するだろうな、と思いました。
ライターの若木康輔さまをはじめ、何人かの方が書いておられるように、彼女は、優しすぎる。)

この映画を見たほとんどの方の劇中評をちょっと拝読しましたが、
どうも作品の実態とはなれて、そういった「期待の文脈」でこれからの監督の方向性を決めてしまう、
そういう流れが映画の世界にもし少しでもあるようなら、私は残念に思います。

もう少しじっくりと、これからの小野さやかが、一体どんな形で、
その鋭い目でファインダーをのぞくのか、楽しみに待っていたいと思います。
この映画は、この映画をとった20歳の小野さやかの出発点になるでしょうが、
26歳の「今」の小野さやかの出発点にもなる映画だと、私は強く感じました。

一言僭越に申し上げるとすれば、とにかく短歌も映画も、
商業路線で作っていくとどうしても見る側の「食い物」にされてしまうところがあるので、
そういった周囲の声にまどわされず、自分のとりたいものに固執して、
今の小野さんの感じるままに映画を作っていってほしいと思います。

映画だって、長く続けるためにあるわけですから、
そのたびに過去の自分とまったく同じ視点で映画をとる必要はないのではないか、と思いました。

蛇足ですが、こんな素敵なご家族がいらっしゃる、
ちゃんと「対話」ができるご家族がまだ「生きておられる」小野さんと、
小野さんのご家族の今後のご健勝をお祈りしています。

海老名大樹
まずはとても面白かったです。見ていて自分の中からさまざまな反応が出ました。
頭が痛くなったり、胃がきりきりしたり、胸がもやもやしたり、どうしようもなく笑ってしまったり、むせび泣いたり。
そういう映画はなかなかありません。なんと言えばいいか分からないけど、ありがとう。

僕にとって作中でことさら興味深いのは、夜中に突然「話したいのだ」と
両親に特攻(!)していくさやかさんに向かって父親が放つ
「家族とはいえ、事と場合によってはただじゃ済まさんぞ」という発言です。
お父さんの「家族とはいえ」の中に潜む「気を遣いあう美しい?家族像」
という見えない本音がもれ出ている瞬間だと思うのです。

相手を思いやりながら、時には言いたい事も我慢するのが美学だ
というお父さんの価値観が家族を支配しているという現実が垣間見えたその時、
そのしわ寄せが家族の中で一番敏感な感度を持つ者に覆いかぶさると言う妙が作中に見える瞬間だなと感じます。
お父さんの本音を一番受け止めていたのがさやかさんだったのではないかと思うと、
なんだか色々合点がいってしまうのです。
価値観を痛いほど受け取っているからこそ、特攻する前に足がガクガクと震えたのだと思います。

この映画は、その支配に対するはっきりとした異議申し立てです。
同時に、一番感度の高い者が一番しわ寄せを受けて歪んでしまいうるという「もったいなさ」に対する、社会への警告だと感じます。
時に弱者になってしまう感度の高い者の、感度が高いからこそ出来た痛快なしっぺ返しがこの映画なのだと感じます。

人間は言葉では言い表せない「何か」を敏感に受け取っています。
生きるために表現するのか、表現するために生きるのか。
それは判りませんが、この映画はさやかさんの家族に対する、
社会に対する「何か」の爆発的「表現」であり、コミュニケーションなのだと思います。

映画の根っこらへんに流れる「『家族とは言え』悪い事したんだ謝れよコノヤロウ」という無形の「表現」を受けて、
さまざまに反応する家族とのコミュニケーションの映像は、とても貴重だと思います。
母親は散々さやかさんの話を聞いた後に、つい「けどね」「でもね」と言ってしまいます。
母親の「ワタシはあなたをずっと愛している、だからあなたはあなたが思っている以上に幸せなのよバカね」という文脈と、
さやかさんの「とは言えワタシの主張を受け取ろうとせずになおも自分の主張を続けるアンタの態度に愛情を感じないのよ」という文脈が
(文脈と言っているのは、はっきりと言えないけど大まかにそう感じた、という意味です)、
見えないままぶつかり合っている(ので、文脈というしかない)。
とにかくさやかさんは受け止めて欲しいのですが、とにかく母親は受け取るよりも伝えたくてしょうがない。
お互い平行線で核心になかなか届かず、お互いもどかしい。映像からそのニュアンスが強く匂ってきます。

長兄はさやかさんがどれだけ詰め寄っても、なんとなく自己弁明の空気を醸してしまいます。
土下座をしている時も、なんとなくそれは消えません。
悪い事をしたと感じたり、なんとなくプライドがあったり、
さやかさんに過去と決別して欲しいと思ったり、丸くなった背中になんだか多様の感情が立ちこめています。
僕はこのシーンで笑ってしまいました。人は土下座させても、尊厳?を損なう事がないおかしみを感じました。
さやかさんもそのきな臭さ?を感じたのか、「よし許す」の発言は自分に言い聞かせる感じがにじんでいます。

さやかさんの「戦闘的表現/異議申し立て」からはじまるコミュニケーションの先に何があるのか。

さやかさんは求めた形を「勝ち取る事」は出来ません。勝てもしないが、でも負けもしません。

稀有な境遇に立ち会った人の貴重な体験を細やかに、鮮やかに「表現」した、宝物のような映画だと僕は思います。
僕は出来る限りそれを受け取って、こうして発信する事でさやかさんや読む人とのコミュニケーションとしたいです。
この映画を受けて、多くの人の感受性の発揮とたくさんのコミュニケーションが起こる様に願っています。

僕はヤマギシの村で育ちました。今も関わっています。
人と付き合えばいくら言葉を尽くしても、伝わらない事はたくさんあります。でも、この映画はどっか胸のすく思いだった。

冒頭のありがとうは、そういうありがとうだったのかもしれません。もう一度、ありがとう。

岡澤陽子
ここまで泣いたのは子供の時以来だろうか。
体がだんだん震え始めて嗚咽しそうになる自分を抑えるのに必死だった。
我慢して、隠してしまえば傷付けづにすむ。。。
でも本当は、自分が傷付くのが怖いだけだった。

知って欲しかった。
聴いて欲しかった。
ただそばに居て欲しかった。

いつか私も家族と、そして私自身とちゃんと向き合える日がくるだろうか。
残された時間はもうそう長くはないだろう。
スクリーンを背に立つ小野さんの凛とした姿を私は忘れない。

塩原佐織
いい子でいること、それが家族における私の役目。
親は絶対的な存在、彼らの言うことを疑うなんてありえない。
思春期をまるごと兄に取られ、反抗する機会を失い、おとなになったわたし。
おとな社会は、自己主張するひとがたくさんいて、主張が苦手な私にとって、とても苦しいもの。

わたしに映っていた世界はこんな感じだった。自分の中に思いは持ちつつ、周りの顔色を窺う
癖が染み付き、本音をいえない状況がここまで苦しくなったのは初めてだった。2010年3月。

そんなとき、「アヒルの子」に出会った。
開始3分で流れた涙が意味していたのは、誰にいうことなしに20数年溜めに溜め込んだ感情だった。

この映画は、どんな家庭にも存在しうる親と子、子と子の感情に、身体を張って挑んだ作品である。
子どもには子どもの、おとなにはおとなの思いがある。時間をかけて、交わる瞬間がある。

小野さやか監督へ一言。
「アヒルの子」をこの世に送り出してくれて、心からありがとう。

前田智
Twitterでの偶然の出会い、20代の頃読んだメメント・モリの藤原新也さん、
その藤原さんの言う「アライブ(生きている)ムービー」という言葉、これらの要素に衝き動かされ劇場に足を運んだ。
公開初日に観てから一週間が経った今改めて冷静に「アヒルの子」ってなんなんだろうと考えてみる。
この作品は小野さやか監督の内なるエロス(生の本能)とタナトス(死へ向かう衝動、破壊的本能)の
爆発をありのまま記録した正に「アライブ(生きている)ムービー」だと思う。

そして、 20歳の女の子が命がけで突っ走る姿は強烈であるが故に誤解されたり、
見落とされがちなのかもしれないけれど、「アヒルの子」のテーマはとても普遍的なものだ。
家族、自分、自己の形成…人間が関係性の生き物で在り続ける限り避けて通る事のできないテーマ。

TVドラマ「mother」で心に残るセリフがあった。
「親が子に注ぐ愛が無償の愛って言うじゃないですか、
あれ私違うと思うんです。子が親に向ける愛が無償の愛だと思うんです。」
まさにその通りだと思った。

小野さやか監督は幼少期たくさんの無償の愛を 家族に向けていたのではないだろうか?
だからこそ、5歳でヤマギシ会に預けられた事を「捨てられた」と感じ、
以後再び捨てられない様必死で良い子を演じてきた。
長兄からの性的虐待、姉の反抗期、
なにがあっても家族のバランスが崩れないよう、自分を無にしてひたすらその役目を担った。
上京し親元を離れて初めて自分が空っぽだと感じ、親に捨てられて、汚くて、生きる価値がない、と言う。
こういうマイナスの自己評価≒負の信念はあらゆる選択、行動、に作用し結果「生きづらさ」となり、
自身を追い詰め自傷行為をしたり、死にたいとさえ思うようになる。

生きるため にはこうした負の信念からエネルギーを抜き取り不活化しなければならない。
そして彼女は生きるために全身全霊で家族と対峙する。
なぜなら「生きづらさ」は家族という関係性の中で知らぬ間に根付いてしまうものだから。(と僕は思っている。)
だから、自己を取り戻すには家族という関係性を再構築(彼女の言葉で言えば「壊す」)しなければならない。

そして彼女はやり遂げた。ラストのセリフはその証なのだと思った。
でも、ほんとう にもう大丈夫なのだろうか?
「親に捨てられた、私は汚い、生きる価値がない」こういう信念は消えたようで意外と芯では燻っていて、
なにかのきっかけで再燃することがよくある。

しかし、それでいいんだと思う。いや、むしろそのほうがいい。
優れた表現者となる条件の一つに狂気と正気、異常と正常の境界を
自由に行き来できることが必要だ、とある人から聞いたことがある。
文学、アート、そして音楽でも、紙一重の人の作品には強烈なパワーがあり惹き付けられるものが確かにある。
小野さやか監督もその紙一重の微妙なバランスを維持し、
作品として昇華することのできる本当の強さを持っていると僕は思う。

そうでなければとても公開などできない作品だと思うから。
だから「アヒルの子」はとても貴重なのだ。

藤本理子(『アヒルの子』予告編編集)/「納得、そしてやはり愛」
初めて、「アヒルの子」を観たのは、22歳頃。私は、納得した。
作品より「小野さやか」との交流が先だったからだ。
その当時の私は、「なんでさやかは、こんなに優しいのだろう」とずっと疑問を抱いていた。
とにかく人の痛みに敏感で、やさしい。人として、寛大で器のでかさを感じていた。
だけど、その疑問を改まって聞くことはなく、そのまま時が過ぎた。

そして作品を観た。
「だからか。。。。しょってきたものが、違う」。
人は、傷ついた分、優しくて強い。だから、こんなにもさやかは優しくて強いのね。とその時、理解した。

当時の私が作品を観て感じたのは、母の愛でいっぱいだったということ。
なんで、こんなに愛されてることに気づかないんだ、
叩け!叩け!もっと叩け!あれは正真正銘の愛のムチ。
自分の母親の声が聞きたくなったのをよく覚えている。たぶんきっと、電話してるはず。笑

今観ても、笑える所は笑えるし、泣ける所は泣ける。
長兄が理屈っぽく対抗して最後逆切れする所は、本当に「男ってやつはっ!」と毎回失笑する。
存在価値の有無を聞いたときの「間」にも悪意を感じる。
『誰にとって?』って「はあああ?????」と何回聞いても顔が歪みイラっとする。
あの時、さやかが「許す」と言ったのは女心だと思った。
許せるわけない、許せないに決まってる。
だけど、あそこで言わなければ自分自身が前に進めないことは明らかだ。
私が、さやかでもきっと許すと言っているだろう。

お姉ちゃんの所も、かなりおかしい。これだから、姉ってやつは恐ろしい。
応戦の仕方が「THE 姉」といった感じ。
さやかが、妹の顔を一瞬のぞかせ、怯んでいるのもよくある兄弟の光景で、
兄弟がいる人、特に妹や弟の人はさやかの気持ちがよくわかるだろう。
優勢だと思っている所に急に牙をむき出しにして襲って来られたあの感じ、お姉ちゃんて怖いよね。笑
でもお姉ちゃんはさやかのことを本当に愛してる。お姉ちゃんが言ったことに激しく共感する。

同じ幼年部で育った人たちに会いに行く。周りとさやかとでは、明らかに違う。
さやか一人が子供で、全然前に進めていない。前に進む為に必要なことだったのなら、仕方がない。
思う存分戦えばいい、家族を壊せばいい。
それで、少しでもさやかが前に進めるのなら、という心境で観ていた。
ここの家族の絆は、そんじょそこいらの事ではビクともしない絆を持っている。
壊そうとしても壊せないよ、きっと。だって、愛されてるし愛してるでしょ。無償の愛に包まれている。

子供の言い分を全部受け止めてから、静かに語りだす父。
なぜ、こんなにも愛していることが、わからないんだと手をあげる母。
また、一つこの家族は強く結ばれたのではないかと思う。

人間は多面性があるから、面白い。人によって、その時の感情によって、接し方が違って当たり前。
いろんな面を持っていて良いのだ。誰にだって、秘密はあるし後悔もある。
また、家族だからこそ、血がつながっているからこそ許せない、心底傷つけてやりたいと思う感情もある。
私は、さっきから矛盾していることを言っている。だが、これもまた、私の中の真実なのだからしょうがない。
自分が言った事は全て言霊となって返ってくる。言ってしまった後悔は、一生背負って生きていかなけ
ればならない。一生後悔し続けるのだ。その分、両親が生きているうちに、愛で返さなければいけない。

思っていても、表現しないと伝わらないことだらけ。
愛しているんだと私も、家族に示さなくては思ったしだいでございます。

杉山百合子/『必要な人に届いてほしい』
外に出たら、監督がトークショウ出演した藤原新也さんといて、観客に挨拶してらした。
手をにぎりたくて、握手していただいた。

こんなふうに、自分のリハビリのような気持ちで見に来る人も多いのではと思う。

彼女は乗り越えたけど、乗り越えられない人が見に来るような気がする、私のように。
それは苦しさを繰り返すようで重たいことだろうけれど、監督はできるだけ受け止めてほしい。

予告を見て、「見なければいけない」と思って前売り券を買いました。

「捨てられるのが怖くて」家族に対して「いい子」を演じてきた小野さやか監督(当時20才)が、
それを壊さないと次に行けない、と、家族との対決を映画にしてしまった。
本人もだけど、家族もよくこれを撮らせた、公開させた、と思う壮絶な内容。
楽しみというより、重たい気持ちで見る日を待つ映画は初めてだった。

前日、感想が書かれている別のブログを読んで、最後には救いがあると知ってしまった。
いきなり気が軽くなって、緊張感がゆるんだ。
読まなければよかったと思ったけど、それでも上映前はどきどきして、
やっぱりあれを読まなければもっと苦しかったろうと思った。

泣きながら家族に迫る彼女は自分の子に見えた。
親や家族との対決を前に「怖い」と泣く彼女は、我が子とだぶってつらかった。

突きつけているのが自分なのか、突きつけられているのが自分なのか、
揺れながら、どきどきしながら、巻き込まれるように観続けた。

監督がそんなにまでして対決した家族、でも本当は、その気持ちを確かめたかったんだなあ。
彼女の傷を思うと、家族には、公開を拒否するという選択肢はなかったのだと思う。
逃げないで踏みとどまった家族。公開するということを受け止めた家族。

それを含めて、大変な映画だと思う。

次兄の場面だけ、他とは違う撮り方だったのは、
監督が撮影方法で揺れていたからだとパンフレットで知る。
そんな、撮り方の揺れさえ彼女の気持ちの表現なのだ。
芝居にのめり込んでいる昨今の私は、映画はノンフィクションでなければ見る気がしなくなっている。

そうだ、これこそ映画なんだ!
文章でもなく、絵画でもなく、音楽でもなく、写真でもなく、芝居でもなく。
映画でしか表現できなかった、その選択が私たちに、この出会いをもたらしてくれた。

どうか、キワモノ的な広がり方をせずにしみ通って、必要とする人のところに届いてほしい。

橋本輝子
この映画を観たとき、「ワタシの心の池(湖ではない・・)に石を投げられた」と感じました。
波紋は、まだ続いています。

この作品は、投げ入れられた石の大きさ、形、数、
それぞれの「その瞬間の心のゆれ」を感じさせ、自分の問題を意識させる作品だと思います。

「アヒルの子」(過去)はあなたですが、今のあなたではなく、今日も日々成長されています。
現在のあなたと人生時間を共有させて頂き感謝です。

山田 愛子
『アヒルの子』を初めて観たのは、去年の秋のことだった。
どのあたりでスイッチが入ったのか定かでないが、途中から泣き始めたわたしは最後まで泣き通しだった。
わたしの中に小さなわたしがいて、それはさやかちゃんの中の小さな子とそっくりではないのだろうけど、
映画が終わる頃にはその小さいわたしが、救われた!と言っているような気がした。すっきりした。
上映後に姿を見せたさやかちゃんは、映画の中の彼女とはまるでちがう表情で、穏やかで曇りなく、
いくつもの闘いをくぐり抜けたようなすがすがしい顔をしていた。

会場を出たところで友人に会った。すごく冷静に、今観た映画の面白かったところ、
印象に残ったところなどを話している彼を見ていると、
わたしはまだぼんやりした頭で、これは結構、男女で反応の別れる映画なのかも…と思った。
同じものを見ても感想が人それぞれちがうなんていうことは、重々承知しているのだけど、
どっぷり自分の世界に浸っていたわたしは、彼とのテンションの差にそこで初めて気がつき、何だかはっとした。
自分にとってこんなに強い感情を促す映画でも、当たり前だけど、人によって反応はちがうんだな。
手のひらから溢れるような気持ちを抱きつつ、大雑把なくくり方かもしれないけど、
自分の女性的な面が強く反応したのだろうと、わたしは頭のどこかで結論づけることにした。

二度目に『アヒルの子』を観る前、わたしの中に二つの気持ちがあった。
ひとつは前回観たときにわたし自身が受けた強い印象。
もうひとつは、客観的な見方もあるという事実。
映画が始まると、話の流れをすでに知っていたからか、または半信半疑で観始めたせいか、
初めて観たときのように感情の波に押し流されることはなかった。
ちょっと引いたところから観ていると、前回とは感想が変わり、
これは入り込めないとなかなかしんどい映画だろうな、と思い始めた。
一人の女の子の独白という面が強く見え過ぎて、息が詰まる。
前回観たときの印象に比べ、この日のわたしは男性的な感覚で『アヒルの子』を観ているようだった。

でもそれだけでは説明し切れない何かがあった。
それは彼女を一人にしない目線だったと思う。
勇気を出して人に会いに行くときも、気持ちを伝えたくて涙が止まらないときも、いつも一人じゃなかった。
仲間と言ってしまうにはどこか物分りがよすぎるような、チームワークというには仲良しすぎるような。
同志とでも言ったらいいのだろうか、彼女が臨む戦場に同じように立ち、彼女を励まし続ける存在。
映画の最後で、「ひとりじゃないしね、」と彼女がいうとき、本当にその通りだと思った。
その言葉は最初から、この映画の基調をなすように聞こえていた。

そしてこの日もまた、上映後に挨拶に現れたさやかちゃんは、
いつものように健やかな一本の木を思わせる佇まいをしていた。
自分の人生を誰かのせいにしていない、
且つ自分ひとりの力で生きているのではないことを知っている、誰かではなく、小野さやかの顔をしていた。

佐藤健人(映像作家)
僕は、すごく現実的な映画だと思いました。

この作品は、自分を苦しめた兄や姉や両親に、一人ずつ復讐していく映画です。
しかし、その復讐はなんだか中途半端に終わってしまいます。
きっと、小野さんは相手の顔を見た瞬間に、ちょっとだけその人の事を許してしまったのではないでしょうか?

それがきっと現実なんだな、と思いました。
殺したいほど憎い相手がいたとしても、とても殺せはしないもんです。

全編泣きっぱなしの小野さんは、とってもチャーミングな「いい子」に僕には見えましたよ。

宮原 理恵
20歳のさやかの言葉の一つ一つが、私の胸に突き刺さった。打ちのめされた。
どこにでもあるような、幸せな家庭。ある時、「明るく優しい子」だったさやかが、牙を向いて襲いかかって来る。
「死にたい」を連発し、泣きじゃくり、自身と家族の“恥部”をさらけ出す。
撮影と編集は、血を吐くような作業だったに違いない。

写真の中の5歳のさやかちゃんの笑顔が、もうすぐ5歳になる我が子とダブって見えた。
あどけない笑顔の陰で、そんなに苦しんでいたなんて。眠れない夜が続いていたなんて。
わかってあげられなくてごめんね。ダメなママだね。涙が止まらなかった。
でも、あなたのことが本当に大切なんだよ。どう言えば、伝わるのだろう・・・。

子育ては迷いの連続。家族はもともと、他人と他人の結びつきから始まる。誰もが不完全な人間だ。だから、
壊れるのは簡単。でも、だからこそ、分かり合う努力はできるし、再生も可能なはず。

記憶をたどる旅の過程で、少しずつ、さやかの表情が柔らかくなっていく。
そして、同様に傷を抱えた同級生の一人に、優しく励ましの声をかける。その目は穏やかだった。
映画製作から5年。スクリーンの前に立ち、挨拶をする小野さやか監督の姿は、堂々として美しかった。
家に帰ったら、何も言わずに、我が子をしっかり抱きしめようと思った。

(OurPlanet-TV ドキュメンタリー紹介欄より転載)

及川真吾(Webディレクター)/家族と観たい映画
自分探しの最短コースは難所が多い、にもかかわらず小野さやかは歩いていく。
自分を振り返るときに、生まれた場所に訪れたり、読書、旅行したりと、外側に目を向ける人が多い気がする。
最短コースはもっと内側にある家族なんだと気付かされた。

家族と向き合うのは照れる、しんどい、ましてぶつかるのは物凄くしんどい。
だから、家族を通じて自分を理解することは避ける。

家族に対してコンプレックスを抱いていなかった自分でさえ、
本音を家族にぶつけるなんてことはやろうとも思わなかった。
人生は1度切り、家族とぶつかって悪い方向へ行けば、家族がなくなりかねない。
人生の中で、家族に対する気持ちの割合が高い人は、アヒルの子を観てどう思うんだろう。

小野さやかは…親子の価値観の相違、姉妹の葛藤、性的虐待の記憶、兄への恋愛感情
といった難問を抱えているにもかかわらず、ぶつかっていく。
人生を賭けて、それを不特定多数にさらけ出している。
難所と知りつつ突き進む。若い時にだけ、発揮できる、勘違いにも似たパワーが伝わってくる。

当時まだ学生だった一人の女の子がよくさらけだす決心がついたなと。
だから、作成から公開まで5年もかかったんだよと彼女も話していた。
5年間も公開に悩んだ映画を気軽に観れてしまうなんて贅沢過ぎる。

チャップリンの名言に「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」
とありますが、これは喜劇なんだと思う。涙が出てしまうかも知れないけど。

若さゆえに作り出してしまった映画が5年間悩ん末に今公開されている。
誰かの、人生を賭けた映画を観れる機会を逃すのはもったいない。

最後に川柳をひとつ…

「あの子」ただ  ヒル追いかけた  「アヒルの子」

小野さやかに陽が当たりますように。

熊谷まり(イラストレーター)
私にとって親ってなんだろう?

いつも世の中のことがよくわかっているような顔をしていた人。
ため息1つで子どもを操作することが出来た人。
自分の中から消し去りたいときもあったけど、やっぱり消せなかった人。
気持ちを言葉で表現するのが下手な人。

10人の人がいれば、10種類の親がいる。

映画の中で、さやかが親に向き合いに行くぞ!というシーン。
彼女は震えていた。
「なんで親と話すだけなのに、震えるの?」…と誰かが言った。
「わからない人にはわからないんだな…」と、私はちょっと苛立った。

親を喜ばせるためにいつもがんばり、親の機嫌を損ねないように気を使い、
無邪気な笑顔でつくろってきた彼女にとって、
親の機嫌を損なうとわかってることをするのが、どれだけ恐怖だったか…。

それは…その親のもとで過ごした彼女自身にしかわからない…。


「私に比べたら、ずっとましじゃない…」とか
「俺より大変だったから可哀想だな。」とは言わないで欲しい。

10人いれば10種類の親がいる。
誰かとの比較じゃない。

子どもたちはその親しか知らない。
比べることも、取り替えることも出来ない唯一の親のもとで、それぞれ精一杯がんばっている…。


監督はこの映画を作りながら、「伝えたいメッセージ」なんてことは考えてないだろうな。
自らの中から噴出する気持ちを、ただ記録したいという気迫…。

監督の「伝えたいメッセージ」がないってことは、
映画を観た人が全員違うメッセージを受け取ってもいいってこと。
この映画を見て思うことは、きっとみんな違う。
十人十色の「映画から受け取るメッセージ」

この映画を観て何かを感じて、また明日からも力強く生きていこう。

北村早樹子(歌手)
わたし自身、ちょうど1年ほど前に、両親の前で大暴れを試みた。
しかし、わたしよりも先にお母さんが泣き崩れてわたしは興醒め、試みは失敗に終わった。
この作品の中で、洟垂らして大泣きして、目を三角にして激昂して、
「死んだる」と啖呵を切って、全てに体当たりしてゆくさやかさんは、
なんと感情豊かでパワー漲っていて、そのスクリーンから飛び出さんばかりの存在感、
心底うらやましいとおもった。
そして泣いている妹の頭を、自然とそっと撫でてくれるお兄ちゃん。
あなたのためなら死ねると抱きしめてくれるお姉ちゃん。
なんて素敵な家族に恵まれているのやろうこの女の子はと嫉妬した。
だけれど、この映画は決して、良い話ではない。

母さんはあなたを産もうと思って産んだわけではない
母さんはあなたの目ひとつ手ひとつ、作ったわけではない
自分の命は自分のものではないとゆうことをわかってほしい

自家中毒をこじらせて必死に反撃している20歳の娘の前で、
こんな残酷なことをお母さんはゆう。
もしわたしがこんな事をゆわれたら、「間違いなく死を選ぶやろう」そう考えていた。
このお母さんの、柔和すぎる物腰が、やさしいようでいて、冷たいなーとおもった。
平穏なトーンで、自分のことを正しいと説き伏せるお父さん、見ていて腹立たしかった。
つくづく、親子の愛情は交わらない。

最初、さやかさんの自意識過剰の青々しい暴れっぷりが見ていてしんどくて、
「痛い子やなあ」とおもっていた。だけど、気づいたら自分も身に覚えがある感情だらけで、
自分を重ねて、もっともっと無茶苦茶に壊して!と期待していた。
最終的に、一応まあるく収束していく感じがちょっとざんねんやった。
だからこそ、次での更なる大暴れを期待します。
その前に、自分の親に見せたいなあと個人的におもいました。

中村のり子(場外シネマ研究所)/伝わらない愛  『アヒルの子』に寄せて
なんて顔をしてるんだろうか、この人は。
思いつめた形相でカメラを睨むひとりの女の子は、私の知る小野さやかとは別人だ。
新宿でごはんを食べている時のさやちゃんは、明るくてさばさばしていて 良く笑う。

しかし映画の中に映し出された小野さやかが放出する、ピリピリした緊張感は何だ。
見ている方も息が詰まってくるほど張りつめている。そして泣いてばかりである。
彼女のきつい眼差しと泣き声が、この映画の輪郭となっている。
そして科せられた命題は、家族を壊す、である。

果たしてさやかは家族を壊せたのか。
ヤマギシ会に抗議できたのか。それには、彼女の思い込みが強すぎたかもしれない。
豊かな想像力が空回りしているよう にも見える。
けれど、いやそして、人が人に思いを伝える時というのは常にそうだ。
傷つけることを避けて、ちょうどいい程度にやるなんてことは、本来不可能だ。
愛していても、お互いに伝わらない。
さやかは家族を、家族はさやかを愛しているけれど、伝わらないのだ。
彼らだけじゃなく、人間同士はみんなそのさびしさを抱えている。
しかし伝わらなくても伝えようと相手に向かっていくのもまた、人間のすることだ。
私はこの映画の主眼はここにあると思う。
家族や社会の問題を追及するのでも解決するのでもなく、
人が人を求めることのどうしようもなさについて描かれているのだ。

本作の構造は見る側にとって明快である。
社会的に認められる「良い家族」を目指すあまり、
その内側に抱え込んでしまった歪みを末娘がぶちまける、
さらにヤマギシ会という組織の一端に迫り、
自分と家族から外側へ向かう姿勢も見せるというスタイルだ。
ただ、そうした追及→解決モノとして本作を見ている限り、
すでに指摘のある通り拍子抜けの感がある。
狂気となって体を震わせて相手を問いつめる20歳のさやかに対して、
父母兄弟が戸惑いと同時に温かさを持っていることを、
本作のカメラは早い段階でとらえているからだ。
彼らがさやかを苦しめたことは確かだが、
同時にこんな独創的なパワーのある娘を育て上げたのも彼らである。
お姉ちゃんは「お前だけが我慢しとるんやないんぞ」と釘を刺しながら、
「こだわるならこだわればいい」と言う。
お母さんは「ずっと受け入れとるんやけど…わからんかった?」と言う。
それらを聞いた時のさやかの情けなさは、この映画の不足点ではない、核心なのだ。

人の思いは身勝手で、混沌として移り変わってしまうから、たぶん最後までゴールがない。
お母さんはさやかを張り倒しておいて、泣きながら留守電に伝言を残す。
そうやって何度でも繰り返す必要があるのだ。
ヤマギシ会の同級生へのインタビューでは、
同じ経験を持ちながら前向きにとらえようと努めたり、
親の気持ちを理解しようとしたりする子たちに出会ってさやかが諭され、
逆に彼女と同じようにトラウマを溜めている子には、さやかの方が優しい言葉をかける。
そうやって役割を交換しながら、人の思いはぐるぐると回り続けるのではないか。
彼女は家族を、組織を、この映画を、壊すつもりが壊されたり、また新たにつくったりしているのだ。

小野さやかの顔つきは、映画の最初と最後でまったく違っている。
眉間のシワがなくなり、瞳の光が柔らかくなって、私の知っているさやちゃんだ。
彼女は自らにカメラを向けて人に見せることで自分自身を壊させ、つくり変えたのだろうか。
いや、けれども、それをまた壊す日が来るだろう。
冒頭の怖い顔を知らないと感じたのだって、私の思い込みだったかもしれない。
かっこつけの私には到底できないような大転回をさやかは起こしてみせる。
『アヒルの子』を見る度、私は自分に問い直す、
こんなふうに大声で泣きじゃくり、伝わらない愛を人にぶつけることができるのか、と。

池田 美智子(婦人相談員)/「親としてのワタシ」
多かれ少なかれ、女として生きていく生き辛さを感じている。
娘として妻として母として。
小さいときから言葉にはできないし、言ってはいけないことと。
結構、抱えて生きている私。

初めて「アヒルの子」を観た時、「娘の私」ではなく「親の私」が反応していた。
観終わって、やっぱり「親」としての私が居た。
あ~あ、親って・・・親の思いばかり子どもに押し付けて
どれだけ「あなたのため」と言い続けてきたのだろうか。
「あなたのため」と言ってきた分だけ「そんな思いでいたんだね」と、
受け入れることが遅くなる。
映画の中で、小野さやかが意を決して、両親に対峙する時、
鋏を持ち出した。お母さんが小野さやかの頬を平手討ちした。
私はあの時のお母さんに同一化していた。
夫に「お前の育て方が悪い」と言われたくないから。
娘を叩くことで夫に示したい。
親はいつも子どものためと思っていると、娘に示したい。
だから叩くことも時にはしてしまいます。
親は自分を正当化するため、時には子どもを叩きます。
それは、私の姿でした。
でも、叩いてはいけません。叩いても伝わりません。

「アヒルの子」は、たくさんの親に観てもらいたい。
良かれと思っていても、子どもにどんな影響を与えているのか
親は子どもの育つ環境そのもの。
そして夫婦の問題がそこにはあること。
母親は子育てのほとんどに責任を持たされること。
「アヒルの子」観た母親同士、親同士が
シェアできる関係が出来るきっかけが出来ると良いな~

5月22日からの劇場上映を楽しみにしています。

茂手木涼岳(全国不登校新聞社)
 かつて哲学者のニーチェはこう言った。「私が信じるのは血で書かれた文章だけだ」。 この映画は、血で編まれている。監督であり主人公である小野さやかの血と、その家族の血だ。

 彼女は5歳のときに一年間ヤマギシ学園幼年部に預けられた。両親の教育方針による ものだが、しかし彼女は「親に捨てられた」と感じる。以来、2度と捨てられないよう、家 族の前ではいい子を演じてきた。いい子を演じすぎて、本当の自分がわからなくなるほ
どに。
 「家族を壊したい」それがこの映画のモチベーションだ。道化としての自分を捨て、これ まで積もりに積もった本音の感情を家族ひとりひとりにぶつけてゆく。性的虐待をした長 兄や、自分を捨てた親。どれだけ苦しかったか。悲しかったか。むき出しの感情が、時に 暴力的な手法をともなって家族に対峙する。彼女はやがて、自分のつらさの原点である 5歳のときの記憶をたどるため、ヤマギシ学園の同窓生やスタッフを訪ねる旅に出る。

 なぜ、こうもむき出しの感情をぶつけ合うのか。泣き叫びながら対峙するのか。決まって いる。家族ともっとつながりたいからだ。許したいからだ。しかし分かり合えない。映画の 中には家族とのディスコミュニケーションが幾度も描かれている。親の言葉が子どもに伝 わらない。見ていて思う。「それじゃダメだよ」「その理屈言葉じゃ通じないよ」、監督は命 をかけてしゃべっている。向かい合う側も命がけじゃないとフェアじゃない。

 しかし個人的には、親の気持ちも痛いほどわかる。子どもを愛しているからこそヤマギシ に預けた。そのことで子どもがずっと苦しんでいたのなら、親としてどれだけつらいだろう。 そして終盤、ぽつりぽつりと出てくる家族の本音は、監督への愛情に満ちていた。むき出 しでぶつけたからこそ、むき出しで返ってきた言葉。映画の最後は、希望で終わる。苦し みもがきぬいた先の光だからこそ、意味があるし、伝わる。誰もが、家族との間に感情の ひずみを抱えている。しかしそれを表には出さない。出さないし出せない。この映画は、監 督自身のひずみを表に出したことで、見ている我々の心の中にあるひずみも浮き上がって くる。そんなもの、見たくないよという人もいるかもしれない。しかしそれが、大げさに言って しまえば映画の、また芸術の価値なのだ。芸術の価値と、世俗の道徳的価値がぶつかる。 そんなスリリングな映画だ。できれば、多くの人に見てもらいたいと思う。

(『Fonte』287号 より転載)

服部規宏(音楽家)
 小野さやかは悩める少女・少年いや悩める人達の厳ついヴィーナスになるだろう!

 抱える悩みは他人から見ると些細に見えるかもしれない。しかし、そういった事柄が 人間には切実だったりする。やっかいな生き物だ。小野さやかが映画で出会う人達 も同じ出来事に接しながらも、それぞれ自分の生き方をしていた。彼女も過去の出 来事とこの作品で闘った。泣いて、怖がっても闘う姿はニキータだ!否、ニキータより 身近で切実だ!

 映画のテーマ対し真剣に悩み取り組んだ真摯な姿勢からかこの作品は強度があり ながら軽い。監督、スタッフや登場人物の人柄か重苦しい陰気な感じがしない。 痛快だった。

 闘うお姉さん「小野さやか」に皆で会いに行こう!

光成菜穂(会社員)
 この映画を始めてみた時、身体から魂が剥がされるように 凄く苦しくなった。

 かつて自分が行った作業を映画の主人公がしていたから。。。

 今は忘れた悶絶するような、抜け場のないような苦しい「生」 を、心の傷跡は忘れてはおらず、衝撃におののいた。

 一度はぶつかるべき、自分の根源に立ち向かう 「あひるの子」は自分探しの旅。

 「本当の私って何?」と問い続けその先の根源へと立ち向かう姿に 涙を止める事ができなかった。

若木康輔(ライター)/雨の日のバカ娘~『アヒルの子』に寄せて~
『アヒルの子』を試写で見せてもらった後の席で、配給・宣伝のスタッフが、なにか書いてくれという雰囲気を出してきた。知ってる人が作った映画は贔屓したくなる、弱いところが僕にはあるから……とグズグズ言ってやり過ごしたのだが、3日後に、頼まれもしないのに思ったことを書きたくなった。アマノジャクが過ぎて時々、自分でも何をしたいのか分からなくなる時がある。
知ってる人が作った映画を見るのには、いい面もやはり少しはある。監督の小野さやかに面と向かって「キミってのは、ほんとに大バカ者なんだなあ!」と言うことができたのはよかった。知らないで批評を書く場合、さすがに「大バカ者」なんて言葉の使用はできない。半分は誉め言葉だと、字面だけだと伝わりにくいからだ。

とことんの家庭劇である。今さら過去のこと(ひとつひとつは映画で明かされる)、しかも当人は覚えていないかもしれないことを問いつめても仕方ない。「私は傷付いてきた、悩んできた」と訴えたところで虚しさが待っているだけかもしれない。分かっていても、やる。カメラを味方に、あるいは武器にして、家族ひとりひとりにぶつかっていく。そういう映画である。
僕が小野さやかに「大バカ者」だと言った意味合いの一つには、そういう(セルフ・ドキュメンタリーという名の)破壊衝動に満ちた行動も、家族の愛があるから成立できる、という視点が行動のなかに欠けている不満がある。
逆に家族のみなさんは、末っ子のにわかの反乱が一人相撲にならないよう、実に辛抱強く受け止めている。僕はこの映画はその家族の姿こそが最も素晴らしく美しいと考える者だが、しかしそれは「家族だから」ではない。家族だろうが無理なものは無理。小野家のひとりひとりが芯をしっかり持つ人たちで、そして端的に言えば、さやかが好きだから、可愛いから向き合い、答えにくい問い掛けにカメラの前でも答えるのだ。紙一重で同じ意味のようだが、物を書く人は、絶対に(本当に絶対に)ゴッチャにしないよう、気をつけるべきだ。紙一重を間違えると「家族だから」が重荷になり、反抗期をやりそびれてこじらせてしまい、苦しむいい子がまた増える。その典型的な例としての、小野さやかがいる。

いや、本当は家族のみなさんの愛なんてものは、小野さやかも肌で一番よく分かっている。いい子じゃなければ「いい子を演じる」こともできない、「いい子を演じる」訓練を選択してきたのは他ならぬ自分なのだからいい子にしかなりようがない、という原理を、撮影を始めた時点では本人だけが分からなくなっているのだ。だから、家族ひとりひとりに過去のことを問いつめた末に小野さやかが決着の証として求める行動は……とても、とても優しいのである。あんなこと(映画を見れば分かる)を強制したところで仕方ない。分かっていても求めるのは、さやかもまた家族ひとりひとりが大切だからだ。

その優しさゆえに本作は、映画としてはかなりの弱さを抱えている。もとから戦うべきものは外にではなく内側にしか存在していなかった、という拍子抜けにつながるし、家族の絆なるものにテーマが気持ちよく回収されて良しとされてしまう、本の木阿弥的な危険も孕んでいるからだ。他人事のように見る(見たい)人は、小野さやかの優しさ溢れる決着の付け方にホッとして大いに「感動」するのだろうが、リアルに家庭崩壊している人からすれば本作は、近いようでずいぶん遠い、「甘い」話に感じられるんじゃないかな。
しかし、そんな拍子抜けしそうな答えさえ、本人にはここまで傷付かないと見えてこないものか……とも、つくづく思う。つくづく思ったうえでの「大バカ者」発言である。
本人によると、家族のひとりに「これはアンタの映画じゃない。アンタの人格そのものなんだから、人に見せる覚悟はしっかりしておけ」と念を押されたそうだ。それを聞いて僕は、ひょっとしたら映画以上に感動した。そんな風にシンプルで肝の据わった言葉を、映画評ではなかなか書くことができないものだ。

「大バカ者」と言った意味合いのもう一つには、それでもとにかく、こいつは自分自身に対して勝負したのだな! という感嘆がある。日本映画学校に入ったりなんかして、しかもドキュメンタリーゼミに入ったりなんかして、心療セラピー的映画制作の方法論と同級生の撮影スタッフを手にしたことで、小野さやかの破壊衝動は覚醒した。
でも、覚醒しようがどうしようが、勝負できない子はできないのである。なぜなら、すっごく怖いことだから。それでも、小野さやかはやった。惣流・アスカ・ラングレーもできなかったことをやった。顔が恐怖で醜く歪もうが、膝が激しく震えようが、自分自身と勝負した。勝負といっても勝ち負けではない。勝負すること自体が、すでに尊いのである。先に書いたように、その勝負はもともとケリが付いていたことでは……と、もうオトナの僕は思いもするわけだが、魂のチキンレースに挑む恐ろしさにのたうつ自分をカメラの前に晒す(晒すことでブレイクスルーしようとする)選択に、もうオトナの僕は、感じ入った。
家族のひとりの住まいに小野さやかが向かう、雨に濡れた夜の道の場面。僕は彼女が手にしている鉄の棒が画面の隅で光るのを見て、瞬時にハンマーかゴルフのクラブかだと思い、(あ、バカ、よせ!)と焦った。次の場面で分かるのだが、彼女が手に持っていたのは、折り畳み式の傘だった。柄の部分を伸ばしっ放しにしているとそう見える。ちゃんと仕舞いなさいヨ! しかし、凶器と錯角させるぐらいに、小野さやかの背中は興奮した雌牛のように猛り狂っていたのだ。
一生のあいだに、人はここまで勝負することが何回あるだろうか?
誰でも一度は、石をぶつけられるべきだ。

「いい子の反乱」というものはかつて、70年代に山田太一や小山内美江子といった家庭問題に極めて鋭敏なドラマ作家たちが注目し、良質な作品を世に問うたことで、どの家庭にも起こり得る問題として広く認知された。以来、基本的には大人が作るものだった。いい子である本人からのメッセージ、オトナや同世代の不良から見れば甘ったれて見えるようなことでも当人にとっては地獄なのだ、という非常に微妙な部分が、やっと映画になった。

思うところあって、どんなにいい映画だろうと「ぜひ多くの人に見てほしい」とはなるたけ書かないようにしているのだが、小野さやかのみっともない姿、バカ娘っ振りを見ることを求めている若い人、特に窒息感を密かに抱えているいい子はたくさんいるはずだ、とそれは書いておきたい。かつて僕が「にんじん」や「次郎物語」を読んで味わった、(家族に対してこんなことを思うのは自分ひとりじゃなかった!)という気分、あの救いに似た感情を『アヒルの子』を見て感じる十代の子は、たくさんいるはずだ、と強く思う。
だから僕は(グスグズ行ったり来たり書いてますが)、『アヒルの子』は、映画としては弱い、破綻しているのではないか、という自分の感想のなかにこそ、社会的な存在価値が眩しく光っているとも考えているのだ。オトナになったら作ることができないタイプの映画、という意味で。

カップリング(または対バン)の形で上映される『LINE』と、応援するならどちらか、と一緒の席で見た奴に聞かれて、「アヒルのほう」と僕は即答した。「だって『LINE』の人には次がある、今後があるという強い雰囲気がハッキリ伝わるもん」とも続けた。セルフ・ドキュメンタリーの秀作を作る女性には1本でやめてしまう例が少なくない、落胆の積み重ねが背景にあってのことだが。そんな甘やかした目線で「どっちか応援するとしたらアヒル」なんて言うような奴は、後でギャフン(古いネ)と言わせるぐらいの粘りを見せてみろ、と小野さやかに望む。彼女がいい作り手になった暁には、僕はしっかり恥をかいてみせよう。
もう一度、ボブ・ディランの詞を繰り返す。
Everybody Must Get Stoned.  誰でも石をぶつけられるべきなのだ。