コラム of ワタシ×家族×ドキュメンタリー

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ワタシ×家族×ドキュメンタリー

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LINEとアヒルの子について
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荻野紹子/「捨てられた 傷 家族 アル中の父親 いい子 壊す 本当の自分」
この2本の作品には私を示すようなキーワードが溢れていて
公開前から何だかとても気になって仕方がありませんでした。

「アヒルの子」では昔の私が見えました。

HPで「アヒルの子」を知った時、昔の自分がそこに居るみたいで
さやかさんの泣き顔が昔の自分に似ているみたいで
「お利口さんでいてね」と「利口」の意味も解らないうちから
母から呪文のように繰り返し言われ続けていた時代を思い出しました。
思い出すには物凄く恐ろしくて怖い反面、忘れていた自分にもう一度逢えそうで
何だかとてもわくわくしました。

緊張しながら映画を観ていると
昔、私が両親に言い放った言葉がさやかさんの口から湧き出てくるので
スクリーンを見つめながら息をするのが苦しくなりました。
私も次の日、学校に行けないくらい泣き喚いて親に訴えた事が何度もありました。
「なんで私ばかり我慢しないといけないの」と。
私は家族を壊し切れませんでした。だからずっと胸で燻ったまま苦しかった。

でも。
さやかちゃんはいいなぁ。
「大切な妹だよ」って涙を流してくれるお兄ちゃんがいて。
土下座してきちんと謝罪してくれる誠意あるお兄ちゃんがいて。
口喧嘩しても最後は笑ってしっかりハグしてくれるお姉ちゃんがいて。
生きていくうえで大切なものを教えようとしてくれたご両親がいて。
公開を許してくれた家族が居て。
私が持っていないものをたくさん持っていて羨ましくなっちゃったよ。
さやかちゃんは捨てられてなんかない。
汚れてなんかない。嫌われてなんかない。みんなに愛されてたんだ。
生きていて良かった。さやかちゃんに逢えて嬉しかった。そう思いました。
「アヒルの子」を観ながら止められなかった涙は何だか昔の自分への
浄化のような気がしました。

さやかさん。また逢おうね。


「LINE」は今の私でした。
「大人になる」って素敵な事ばかりではなくて
あんなに子供の頃は大人に憧れてうずうずしていたのに
歳を重ねて気が付いたら いつの間にか心には
自分で付けてしまった傷と他人に付けられてしまった傷で
ぐちゃぐちゃになっていました。
忘れたいのに 治したいのに 自分ではどうにも出来なくて
どうしようもないくらい哀しかった。

子供みたいに「痛いの痛いの飛んでけ」で笑える頃に戻りたいと
何度も思ったけれど、そんな事で癒されるはずないくらい
時間の経ち過ぎた傷は深く手の施しようのないほど抉られていました。
人にそんな哀しい話をしても本心から痛みを分かち合えるものでもないし
可哀相と思われるのも嫌だから、笑って誤魔化して これ以上傷が増えないように
自分を守る事に精一杯になっていました。

時々突然理由もなく襲ってくる不安感と吐き気に悩みながら
止せばいいのに 思い出さなきゃいいのに
せっかく乾いた瘡蓋をまた剥がしてしまう自分が大嫌いでした。

自分のフリをしている自分。ほんとの自分は誰も知らない。

LINEを観て そんな葛藤に膨大な時間を費やし
布団を被って家族に気付かれないように泣いていた自分が
滑稽で情けなくて変なプライドに拘っていたのが恥ずかしく思えてなりませんでした。

あんな風に誰かに見て貰えたなら 私の傷も立派な勲章になったでしょうか。
あんな風に誰かに話せたなら 私の傷はこんなに深くならかったのではないでしょうか。
「生きていくことは 傷付いていくこと」という小谷監督の言葉に
もう隠さなくてもいいんだ。と笑顔になれました。

2本の作品を見終わった後 誰かに後ろから抱きしめて貰っているような感覚になります。
背中を押してくれるのではなくて「傷だらけでも大丈夫。」って後ろから支えてくれるような。

素敵な映画と監督に出会えた事を感謝しています。
スタッフの皆様 お疲れ様でした。
またいつか素敵な作品に出会えることを信じて。

萩野亮(映画批評)/「私」をめぐるふたつの冒険
『アヒルの子』(小野さやか監督)と『LINE』(小谷忠典監督)。
この2本は必然性をもってここに並べられているわけではない。
ふたつの映画がここで出会い、いま、わたしたちの瞳に届けられようとしていることは、いわば偶然としてある。

このふたつに共通しているのは、作り手が、まずもって自分自身に、そして自身の家族に、
キャメラを通して向き合う過程が記録されていることである。
こうした「私」をめぐるフィルムは、しばしば「セルフ・ドキュメンタリー」という名前でもって呼ばれてきた。

1960年代に始められたジョナス・メカスの日記映画に端を発し、
日本では詩人の鈴木志郎康らによって継承されたこの方法領域は、
90年代に河瀨直美や松江哲明らの活躍によってよりひろい注目をあつめ、
さらにはデジタル化の時流をえて数々の作品を時代に問うてきた。
こうした線的な流れがたしかに存在するいっぽう、けれどもセルフ・ドキュメンタリーの方法論が決して単一のものではないことも、またたしかである。
それは、「私」をめぐる世界のありようが、ひとりひとり異なっているというあたり前の事実と、おそらく重なり合っている。

今回上映される『アヒルの子』と『LINE』を見てみるだけでも、
「私」と「家族」を撮るという行為が、決して単純なものではないことがすぐさまわかるだろう。
これまでのセルフ・ドキュメンタリーの作家たちのように、自分ひとりで撮影を行なう『LINE』と、
映画学校の卒業制作であり、小規模ながら撮影と録音のスタッフをもつ『アヒルの子』では、
まずもって作品の主体性のありようが明瞭に異なっている。
興味ぶかいのは、単独での制作である『LINE』のキャメラがかえって「私」の横溢に歯止めをかけるように働き、
集団での制作である『アヒルの子』のキャメラが「私」を開放させているように見えることだ。
『アヒルの子』で作家自身が見せる、怒りや悲しみや安堵を幾重にも湛えたいくつもの忘れがたい表情は、
予想を超えて展開する事態に対しても冷静にフレームを切り取るキャメラマンの存在なしにはありえなかっただろう。
いっぽう『LINE』における、たとえばコザ吉原の娼婦たちの肌のふるえは、
作家自身がひとり構えた通約不可能なキャメラとの距離においてつむがれている。
それは作家の「私」をあふれさせるものではなく、むしろ「他」なるものを受けとめる静かな時間としてある。
こうした主体性の違いこそが、ふたつの映画にまったく異なるものがたりを歩ませている。

「映画」と呼ばれる営為を通じて、「私」と、そして自身の家族と向き合うこと。
キャメラを持つことでゆるされたこのふたつの冒険は、きっとこれからも続いてゆく。
わたしたちは偶然に出会われたこのふたつの映画を通じて、彼らのものともまた違う、
自分自身のものがたりにそっとふれることがあるかもしれない。(文中敬称略)

福嶋真砂代(ライター)/痛みのなかに見出す光
「LINE」と「アヒルの子」を見ました。
ふたつとも監督の個人的なドキュメンタリーであるけれど、そこには限りなく普遍的な痛みと希望が流れてる。
荒削りながら、問題から一切目を逸らさない、彼らの並々ならぬアーティストとしての覚悟と清々しさがすばらしいのです。

——「アヒルの子」の描き方は、赤裸々でヒリヒリする感触があるが、それだけに胸を打つ。

試写室の受付では可愛らしい女性がお迎えしていた。
なんとなく「きっと彼女が監督なんだろうな」と思い席に着いて待っていると
その人は客席に向い、たどたどしいが自分の言葉で挨拶した。
その姿からは、彼女がどれだけすごい監督かが予想もつかなかった。

だけど、包丁を手に自殺しようとしている、まさにその監督の姿が画面いっぱいに映るとき、
カワイイという印象はあっというまに消えた。
同時に、彼女の心の奥深く巣食う闇の黒さが目の前に広がった。

その闇を、ほかの誰かに投影して描くのならよくある話だけど、
彼女は自分自身をいわゆる「生け贄」にして、自分の生命の命題にとことん向き合っていった。
「わたしは生まれてきてよかったのか…」という。
彼女は決心する。死を選ぶ代わりに傷に向き合おうと。
そこからこの映画がはじまる。まさしく体当たり。心は血みどろの撮影だったろう。
ハナや涙でぐちゃぐちゃの顔を隠しもせず、カメラも微動だにせずに彼女を狙い続ける。

自分を嫌うということ。そういえば「君を嫌いな君が好き」とアイドルグループが歌ってた。
ポップに明るく歌う彼らに、その闇の手応えはあるだろうか。
その現実たるやナマやさしいものではないことが、小野さん(監督)をフィルターにしてじくじくと伝わってくる。

いつからどうしてどうやって自分を嫌いになったのか。
雲のなか紛れてしまったような曖昧な記憶をひとつずつ辿る。
そのためにはまずそれを作ったと思われる相手と対決が必要。
そのターゲットは家族だった。 ふたりの兄、姉、そして父母。

家族の崩壊が待っているのか、と思った。
記憶の底からドラマ「岸辺のアルバム」のオープニング、
多摩川の堤防が決壊していくモノクロの映像がふと浮上してきた、ジャニス・イアンにのって。
もしも崩壊がわかっていたら、傷が家族につけられたと思っても、
ぶつかるのが怖くてうやむやにしてしまうのが普通かもしれない。
でもそれだと傷はずっと疼き続けるのだ。
傷の原因に面と向うのは面倒くさく、怖い。だから苦しい。誰もが多少なりともチクリとする想いを持っている。

でも傷を傷と認め、傷つけたのだと相手にも認めさせる。
そこにしか救いがないことを彼女は本能で知っていた。
誰かがそうしろと言ったのだろうか。いや、きっと違う。
「自分が嫌い」である間は、自分を愛せない。自分を愛せない間は、人を愛せない。人を愛せない間は、世の中を愛せない。
こんなに不幸なことはない。そのことに気づいていたのだ。

ゆえに、小野監督は「映画」という強力な“武器”を手に入れ、「傷」という敵に向かって攻撃をはじめた。
たとえそれが相手を傷つけるかもしれないし、自分もさらに傷つくものであっても。

さて「許せない」という感情は、いつ、どこで、どうやって、「許す」という感情に変化するのだろう?

その瞬間をこのドキュメンタリーのなかに見ることになる。その瞬間の彼女の顔、彼女の平和、彼女の光。

そこで図らずも、わたし自身がやすらいでいることに気づく。これこそカタルシスと呼ばれるものだろうか。
それにしても、この映画に関わった(出演した)家族の潔さもすごい。いや、なんといっても家族がすごい。
自分の恥ずかしい部分をすべて晒すことになるのだし、晒すことでいろいろな影響もでるのだろうに…。
愛がなければできないことなのだ。つまり、家族とは何か、自分の命とは何か、そこにループして戻ってくるのだ。

ところで、彼女の傷の原因のひとつに関係のあったヤマギシ会のことに踏み込んだ映画はこれが初めてではないだろうか。
後半のインタビューを交えて実体に迫っていくところも興味深いものがある。

映画を撮ることで、人間を成長させ、人生を豊かにしていく。そういう教育方法があるのだと聞いた。
それは、自分と他者との関係を見つめ、壊し、再構築することでもある。
小野監督の才能は、自分自身をさらけ出すこと以上に、何を撮るべきかを本能的に捉えているところにあるように思う。
ゲームの世界なら、ファーストステージをクリア、レベルがあがったところか…。次のアウトプットがとても楽しみだ。


「LINE」は、小谷忠典監督が、酒に溺れボロボロになってしまった父親のルーツを探って、沖縄のコザの“吉原”にたどりつく。
そこで働く娼婦を撮ることでコザと父を映しだす。
彼も父の存在に向き合うことで、自分自身と否応なく対峙する。こちらも衝撃的、しかしとてつもなく優しい作品だと思う。